樹齢二千年
樹齢二千年の大楠の元に立った。
何かを表現しようとして、何も浮かんでこなくて。
何かを得ようとして、静かに包まれ、そこにあるばかりで。
けれども言わずにはいられなくなって、
「私、ちいさいナー」と言っていた。
そんな風に思っていなかったのにね。
表現した事とほとんど真逆のことが起こっている時、けっこうあるよね。
見上げているけれど大きいとは感じず、私に返ってきても私の小ささは感じず、そこにいるばかりだった。
大地に足を立たせて生きている私は、広い上の空間へ向かうよりも下へ、大地へ向けた方が近道なのではと思い、下へ意識を向けてみた。
そうしたら行き止まりになった。
上へ上げてみたら、知覚するよりも早く
ゼロへ広がった。
うねりの無限大∞ではない、静かなゼロへ。
大楠の向こうには滝にはならない勢いのある川が流れていて、山からの水脈が今でも健在だった。きっと太古の昔、周りは原生林の様であっただろう。
この楠の木はそこにある。
見届けて、見届けて、
使命とか役割もなく、
来ては去ってゆくものを
現れたら消えてゆくものを、
自らを現身としてそこにあるようだった。
⏫
その時だけかもしれないような人との関わりが増えてくると、短い今世での出逢いであるから、今世中にもう一度とか、会いに行くとかしようとする。
もちろんそれは衝動という生きていることの動きのひとつ。
来ては去ってゆくものを追いかけようとするし、現れたら消したくない。
はてさて、この楠の木を思い出すと、
衝動のまま静かに鎮まる。
期待したまま期待がなくなる。
⏫
牡牛座はいつものことからなかなか動きだそうとしないらしい。
なるほど確かに、はつらつとした静かなダイナミックが大好物です。
動いている時が強い表現とも言えない。
静かな時が消えようとしているとは言えない。
魂が続くうちに、この楠の木にまた会いに行こう。
来世かな、今世でしょうか。
その時はワーリングでもしてみましょうか。
いつ何が起こるかは分からないから、いつになるかは分からないまま。
そして、いつでも。