ゆらぎと眠り&音空ハーブウォーター

二宮町在住。来年には➡改め、来月中にはハーブウォーターをお披露目、販売します。ゆらぎと眠りのセラピスト浅沼瞳の音空(おとそら)ハーブ畑観察日記と暮らしのブログ。

それを覚えていなさい

hotomo92014-12-20

瞑想トークが続きます。


先日久しぶりに由比ヶ浜の瞑想会に行ってきました。

ひとりで行うのも、自然と瞑想が起こってくるのも好きなのですが、ここの所、ずーーーっとひとりを楽しんでいたのもあって


「集う場所にいながら、ひとりでいよう」ではなく、
「誰かといて、何かが起こってくる」に飛び込んでみたくなりました。


ここでの会は1年以上ぶり。
みんなが初めての瞑想を行いました。


ハート瞑想をしてからOshoの講話を、
特にアクセプト(受容)アクセプタンス(受容性)に絞った講話を、Oshoの声そのままで聞き、
そこにいて起こってくることを体験していくといった瞑想会でした。


終わってからシェアするのですが、リーダーに
「よく眠っていましたね」と言われるほど、
「はい、よくよく眠っていました……。」


睡眠という眠りにおちている眠りではなく、
眠りは死だな、と。そういう眠りです。(今思えば、です。その時は言葉や感覚はまだまだついてこないものですね。)


流れてくる講話の言葉は聞こえてきますが、
聞こうともしない、理解しようもおこらずに流れていきます。


ただ、急に「これは覚えておこう」としたり、
いろんなことが起こりだします。


「〜しよう」が起こってきたとき、
いつでもその度に、
Oshoが遠くで、けれども私の内側近くで


「ここで、この瞬間にあるがままに。
まさに、そのままに
正確に、そのままにいること。
変えようとしないように。」


と何度も何度も呼びかけてくれました。


誰かと行うこのような場は、(今回は10名くらい)
ほんとうに、ひとりでは起こらないことが起こってきます。


そして、チャレンジでもあります。
「びびることをびびらずに、びびる」を
けっこう慣れてきたなと思っていた私ですが、
はい、とてもあせりました。


それはよく、「潜んでいる」と表現されたりしますが、まったく潜んでいないところにあり、
いつの間にかジャッジしている基準を作っていたこと。


それは誰かに対してではなく、「私に」であったこと。


誰かや他者から起こったことに対してはそのままでいられるのに
同じことを私が起こすと


「あーしよう、こうしよう、次はしないぞ。
安心するためにはこうしたらいいかな。
みんなはどう思っているんだろう。」が、
それはもう一気にやってくる。
これはスゴいです。


そして再び彼の声


「変えようとしないように。
いったい誰が変えようとしている?
変えようとしなければ、あなたは変わるだろう。」


ただ、ただ、この繰り返しでした。


私が自分を責めるということ。
たとえそれがどんなに些細なことであっても
その感情の大小は関係なく、「そうじゃない」と言っていることが、


それはそれはたくさんあるものなんですねーーーーって。


誰かに向かった感情は、そのまま自分にも向かっている。
これは、とても分かりやすい。
誰かや何かに向けずに、自分へあたりまえに向けている感情。
これは、分かりにくい。
気づいているんです、本人。
そして責めてることを責めてる。
ごっくん。飲み込んでいる。


それをどれほど
責めている感情として、
そういう「感情が起こっている」と
賛成も反対もなくいられたら。


「変えようとしなければ、
あなたは変わるだろう。」


変えようとしてしまうんです、怖いから。
歓迎できない感情があるなんて、見たくないから。


この変えようとしない、というスペースにいくには、変えようとしてるスペースにいることを先ず、観ること。そうしていくうちに、そこから変えようとしないが起こってくる。


変えようとしないをしなくなったときに
起こってくる。


それを体験できたのは、
誰かがいたから、だから私を観ることができた。



自分に向かっていけばいくほど
誰かの気配はなくなり、関わろうとしなくなる。
けれども「何かが起こった時」
誰かや何かの気配、重力を一瞬にして感知し始める
それは、ひとりでは起こせないもの。


一部であって、ひとつであるを感じはじめる……。
それが、「人」との関わりからであること。
ひとりでいて起こる「ひとつ」と
誰かがあって起こる「ひとつ」。
そのないようである、わずかな違い。
それを言葉にはまだ表せられないでいます。



サイレンスの時を合間合間に
しっかりと設けてくれたことに感謝します。


そのサイレンスの空間に彼の声が、
よくよく染み込みました。
リアルで耳に聞こえてきていた時よりも


体験として、残像として
今でもずっと響いています。


そして言葉として覚えていなくても
その感覚をすぐに思い出せます。


講話を日本語に訳したプリントを後からいただき、今それを読み返しています。


文字となって印象に残るものと
メディテーション中に入ってくるものとは違うものですね。


私が唯一、はっきりと目が覚めて覚えていた声は
「それを覚えていなさい」
だけでした。


今プリントを読み返していて
あ、これも覚えているという声や言葉もいくつかあります。ですので、文字になって残るのもありがたいなと思うわけです。


それと同時に、
文字として入ってくる言葉は
抜け落ちてしまっていることが
たくさんあるものだなとも思うわけです。


「これがそうだ」
とあっても
そうだよね、くらいはありつつ、
ハートはどこかまだ満たされていない。


けれど、そこにいて体験として覚えていると、
それとともに、呼び戻される。


「読む」だけでも、わき起こることはあるけれど、
途方もなくはわき起こらない。


恩恵は用意されたところからは、得られない。
「これくらい」なんてものでもない。


つまり、
そこにいて、起こってくることを体験するにつきる。



あの日がはなれていけばいくほど、
誰かや何かとの繋がりを感じ始めています。


薄れてゆくものではなく
宿ってゆくように。


その時の体験が全てではなく、
時という変化があって
ますます豊かになっています。


すべてが存在していて
その存在の中心には魂があって、


ウダウダしたり、グズグズしたり
幸せに満ちたり、豊かさそのものであったり。


私たちの存在はいつでも
そのまんまそこにある。


「それを覚えていなさい」


訪れた場所を忘れることがあっても
それを一度でも体験したら、
いつでも、どこにいてもその場所に戻ることができる。



同じ瞑想法をしたとしても、
まったく違うプロセスで中心を感じる。
その体験が同じだったことは1度もなく
いつだってその時は微笑みがこぼれているんですよ。



豊かな魂、ありがとう。