むかえにくる音 去ってゆく音
「むかえにくる音」と「去っていく音」との間
(余韻や余波のスペース)は、
自由空間であり、本領発揮であり、
最もダイナミックなのではないかと思う。
私の扱う音叉は「純音であるという素晴らしさ」と「純音であるといういまいちさ」が同居しています。
純音が純音であるからこそ、
シャープ♯やフラット♭、ちっちゃな雑音が生まれてくるのですが、純音だけでは純音だけでしかなく、あまりにも整いすぎている時がある。(シャープ♯の音叉もありますよ)
音として存在することは出来るけれども、
「生命体として命を持ち、現れる」には、
「2音以上の響き」と
「整数ではなく、小数点以下の波」が含まれなければ、命を持つことはできないのではないか……。
「純音が純音のまま、個性となり命をもつ」には、
倍音の現れ方や、個々の息づかいやリズム。
そして、澄みきってばかりはいられないという、
「現れるための濁点」が含まれなければ、
「個性が純音のまま」生きられないのではないかと感じられるのです。
外出しなくてもいい雨の日は、いろいろとはかどります。
実際にはかどっているのかは……ナゾですが。